「あの日」、そして「特別で“普通”の日」を経た今年の3.11

 今日で2年です。昨年はこんなブログを書いていましたね。それからまた1年が経過し、結果的に言えば、やっぱり想定通りにコトは進まなかった。そういう1年であったように思います。

 

 

 故郷・福島県南相馬市小高区は、この1年で「警戒区域」は解除され、自由に立ち入れるようにはなりましたが、居住や宿泊はできないままです。除染はどうなのかといえば、住宅に関してはまだまだこれからで、当初の予定からはやはり遅れをとっています。

 

 

 我が家の実家の両親も、この1年でまた引越しがあり、南相馬市原町区(実家ではない仮住まい)から郡山市へと住む家が変わりましたし、そんな転々とする中で、残念ながら愛犬が天国へ旅立ちました。そして、祖母は震災以降、ずっと避難先の新潟県で暮らしたままで、家族ともなかなか会えない状況が続いています。

 

 

 とまあ、あんまり昨年と変わっていないというか、状況が良くなったことなんて、ほとんど無い。我が家を例にとってみても、また同郷の他の人たちにおいても、似たような状況なのだろうと思います。

 

 

 今日、仕事から帰ってきてFacebookを見てみると、震災から2年が経過した今日この時の意識の違いが地域ごとに結構ハッキリ分かれていて、とても興味深くもありました。

 

 

 故郷・小高の友人たちは、帰れなくなった我が家や津波で失われてしまった懐かしい景色に想いを馳せたり、2年前を思い出して涙を流したり、ほとんどの人の投稿は震災に関連するものでした。

 

 

 その一方で、やはり東北から離れれば離れるほど、日常と変わらない投稿がそこにはあります。別にこれは悪いことではなく、仕方のないことです。自分に関わりの薄いものは記憶から薄れていく、人間として仕方のないことではあるのです。でも、そこにもどかしさが無いと言ったら嘘になる、僕の気持ち的にはそんなところかもしれません。

 

 

 今日は3月11日ということで会社で避難訓練がありましたが、訓練を機に2年前を思い出している周りの人たちの会話や様子は、まあ穏やかなものです。そもそも、僕としては何も終わっていないし、現在進行形で続いているものとして震災を見ていますが、周りの人たちにとっては「思い出す」ものになっている、ここに大きなギャップがあるのですが、それは仕方のないことなのです。いや、もどかしいですけどね。

 

 

 とはいえ、3月11日に思い出すということはとても大事なことだと思いますし、2年経った今もほとんど何も進んでいない状況にくじけそうになりながら、でも、懸命に前に進もうと頑張っている仲間がいるという現実を、福島や東北以外の人たちにもぜひ知ってほしいしですし、少しでも気にかけてもらえたら嬉しいなと思います。

 

 

 来年の今日にはもっと状況が良くなっていることを願いながら、そうなるための復興3年目の僕の第一歩を踏み出そうと思います。