言葉をどう捉えるかに、感情は入ってはいけない

 人間は感情の生き物とはよく言われます。人間にとっては、感情が行動の最大の動機であるという人もいますし、感情が神経をコントロールしているという人もいます。それくらい感情に左右されるのが人間でもあるのでしょうし、その感情がかなり豊富であるのも人間の特徴なのだと思います。



 先日、作家の村上龍さんが、上記の映像でこんなことを言っていました。(5分くらいの映像なので、よろしければご覧ください)

“言葉をどう捉えるかに、感情は入ってはいけない”


 これは、例の原発事故で当時の枝野官房長官が、「ただちに健康に影響が出ない」と頻繁に発言していたことに関して、村上さんの対談相手の方が疑念を持っていたというような話の中で村上さんが言ったひと言です。「ただちに健康に影響が出ない」、この言葉はいま振り返れば、まあ正しかったのでしょう。長期的に影響出るのかは分かりませんが、とりあえず即影響が出るような被曝ではなかったわけですからね。


 とはいえ、この対談相手の方もそうですが、結構多くの方が、枝野官房長官の言葉に疑念を持っていたことでしょう。それは、放射能への恐怖、政府や東電への不信感といった、人々の“感情”が原因となって抱かれた疑念です。しかし、村上さんはそれは間違っていると言っているわけです。


 僕たちは、感情とともに言葉や情報を受け取ることが多々あると思います。ですから、その時々の感情によって、捉え方は大きく異なりますし、感情を介することでの“解釈”というものも生まれてきます。しかし、このことは先程の枝野官房長官の発言の例でも分かる通り、感情に影響を与える重大な時ほど、冷静な判断ができなくなる危険性も示唆しているのではないでしょうか。


 感情を介しているからこそ、感情が乱れている時には、事実を受け取れない、拡大解釈をする、斜めから見たがる、そんな状況になりかねないと思います。枝野官房長官の言葉を受けての人々の反応は、放射能への漠然とした恐怖と政府・東電への不信感という感情を介して、対談相手の方のように、事実ではない様々な憶測を呼んだわけです。


 そして、村上さんの言葉に戻ります。

“言葉をどう捉えるかに、感情は入ってはいけない”


 言葉は言葉であり、言葉の意味するところでしかありません。言葉を発する側に意図がないのであれば、言葉はその言葉の意味の通りであるわけです。ですから、平時はもちろん、大事な場面においても、冷静に言葉を受け取ることが事実を受け取ることであり、それが正しい判断を下す材料になるのだと思います。村上さんのこのひと言は、そんなことを教えてくれている気がします。