原発20キロ圏内・福島県南相馬市小高区への一時帰宅を終えて

 先日2月19日日曜日は、福島県南相馬市に警戒区域となっている実家の一時帰宅のため行ってきました。僕にとっては、3.11後はじめての帰省でした。前日の2月18日に福島へ向かう新幹線の中で思ったことをブログに残しましたが、実際に現地に行ってどう感じたのかも、ここに残しておこうと思います。


 今回の一時帰宅は、我が家にとっては3回目です。今回は両親と僕の3人で入りました。一時帰宅の時間は4時間程度。今回、僕は震災後はじめてということもあり、まずは家の片付けの前に、街中や沿岸部を見たいと言いました。


 見慣れた街中、母校、親戚の家があった場所、よく遊んだ海水浴場、小さな町をひと通り見て回りました。そして、実家に到着し、実家の外観、そして家の中を見ました。こうして、いろんなものを見て率直に感じたことは、次のようなことです。


「あ、本当に警戒区域なんだ」

「あ、本当に誰もいないんだ」

「あ、本当に何も無いんだ」

「あ、本当に草木で荒れ果てているんだ」

「あ、本当に家の中はぐちゃぐちゃのままだんだ」


 最初の感想は、こういうことです。いや、これは現時点での感想もこのままかもしれません。


 今の時代はインターネットというものがありますから、地元が津波でどう被災したのかはGoogle Earthで分かりますし、現地に立ち入りした人のブログ等で街中の様子もだいたい分かります。もちろん、僕もこういう情報は気にかけてチェックしていますから、だいたいの情報は分かった上での、今回の一時帰宅です。


 そして感じたことは、「あ、本当に・・・」でした。つまり、自分がインターネットをはじめとした各種メディアで見聞きした情報が、本当に現実のものだったのだと“実感”したのが、最初に故郷を自分の目で見た瞬間の感想であり、今もその状態なのだと思います。


 でも、不思議なことに悲しさが湧き出てくるようなことはありませんでした。それは時間が経過したからなのかとも思いましたが、実際はそうではなくて、おそらく自分の中でまだしっかりと受け入れられていないからなのだと思います。故郷という土地、空気、人、品と触れ合う時間が短すぎて、思い出を呼び起こして今の状況と照らし合わせるという作業ができなかったために、そんな悲しみに暮れる暇なんかなかったのだと思いました。


 そういう意味では、被災当初から故郷の近くから離れずに、現地の人たちと触れ合っている両親は、おそらく違う心持ちだったことと思います。両親は、職業柄いろいろな人たちと触れ合います。そこには、津波にさらわれ一命をとりとめた人、目前に津波を見た人、家が流されてしまった人、大切な人を失ってしまった人、様々な人がいます。


 そういう人たちと触れ合い、故郷の思い出と現実を照らし合わせ、きっと深い悲しみにさらされたのだと思います。もちろん、そんなことを僕らには見せませんが、今回、現地に行ってそういうことなのだと理解をしました。おそらく、僕もいつの日か家族や友人と再び故郷を訪れ、共に行った場所を巡り、思い出話をゆっくりできるようになる日が来たならば、その時には悲しみという感情が沸々と湧き出てくるのだろうと思います。でも、まだそれは警戒区域が解かれた後の話です。


 先日、僕はFacebookにこんなことを書きました。

「被災地の人が忘れたくても忘れられない日と、被災地以外の人が忘れないようにしようとしている日は、どちらも同じ日だ」


 そして、それとともに最近よく感じることは、2012年の3月11日を一つの区切りにする動きがとても多いということです。たしかに、人間は前に進まなければなりませんから、区切りというものは大事です。でも、その区切りが、被災地から遠ざかるための区切りにはしてほしくないなあと思うんですよね。


 やっぱり、現地に行くと分かります。警戒区域内なんて、まだ復興の一歩も踏み出せていないんですから。もちろん、こういうことを分かっていて、警戒区域内の今後の復興支援を計画してくださっているボランティア団体の方々もいらっしゃいますが、こういう一部の方に限ることなく、多くの方々に、こうした現状をご理解いただけるとありがたいと思います。


 それでは、あとは一時帰宅の様子をお伝えします。


新幹線で大学時代を過ごした福島へ到着!


途中の飯館村は、車の通りはありますが、人は一人も見かけませんでした。


こちらは2月18日の東北電力原町火力発電所。海だけ見ればいつもと変わらないのですが、後ろを見ると何も無くなってしまっていました。


南相馬市鹿島区沿岸も、ご覧の通り何もありません。


母校・原町高校。原町区の街中は至って普通です。


ここから2月19日の一時帰宅の様子です。馬事公苑で受付をし、全員に積算型の線量計が配られます。ちなみに、4時間過ごして1マイクロシーベルトでした。


警戒区域に入ります。


母校・小高小学校の校庭は枯れ草で荒れ果てていました。


奥に見えるのは、母校・小高中学校の体育館。壁が崩落しているとのこと。


小高駅東側の小高区岡田付近は、今も津波で流された車が放置されたままです。これが警戒区域内なのです。


同じく小高区岡田付近から、見えるはずの無かった海岸線が見えてしまっています。


国道6号線から東部グランドを過ぎた辺りは、全く水が引いていません。東部グランドは、瓦礫の山でした。


小高区角部内・村上付近の海岸は、防波堤のほとんどが破壊され、あんなに生い茂っていた松の木もほとんど無くなっていました。


毎年飛来する白鳥は、今年も飛来し、寂しそうに小高川で羽を休めていました。


小高区塚原から大井を眺めました。水は深く溜まっています。


小高区塚原の塚原公会堂前の交差点。


小高区塚原の塚原公会堂前の交差点から眺める村上海水浴場。奥に見える山は瓦礫です。


ちなみに、この場所と同じ場所を津波が襲った様子がこちらです。

(富沢貞嗣さん撮影)


そして、この場所はこの荒波の中です。

(富沢貞嗣さん撮影)


小高区大井のヤマザキショップ。子供の頃はよく行ったっけ。


我が家は0.2マイクロシーベルト程度と、放射線量は低いです。


小高区大井の国道6号線ガード下。海岸から2キロほど離れても、津波の威力は全く衰えません。


 う〜ん、こうして写真を整理しながらその場所場所での思い出を振り返ると、やっぱり少しこみ上げるものがありますね。でも、それが受け入れるということなのだと思います。故郷は、僕にとって、過去も現在も未来も故郷のままです。その時々の故郷と深く深く付き合っていきたいと思います。まずは、警戒区域が早く解かれることを祈るとともに、この警戒区域内の現状を読者の皆様にご理解いただけたら幸いです。