“考える”ということを考える

 「よく考えろ!」、「考えられる社員を育てよ!」、世間ではいろんなところで“考える”という言葉を使いますよね。そして、僕たちも実際に日々暮らしていれば、何かしら考えながら生活しています。今日の夕飯何しようかなとか、明日の休みはどこに行こうかなとか、あの子と付き合うにはどうしたら良いかなとか。


 でも、この“考える”って、どういうことなんでしょうね?何か、考えるとはどういうことなのかを考えてるという、訳の分からない状況になってきましたが、ちょうど、ちきりんさんが本の発売に際して、こんなブログを書いているのを見つけたり。思考と分析、「ふむ」って感じですが、これはもっと突き詰めれば、クリエイターとウォッチャーの違いとも言えるのかもしれませんね。


「思考と分析」、その微妙かつ決定的な違い - Chikirinの日記


 なんて、こうしていろいろと考えていると、やっぱり考えるということは、いかに思考を深くするかということなのかなというふうに思えてきます。ちょっと前にブログでも書きましたが、いかに掘り下げるかということですね。幸運にも、この時代はインターネットとタブレット端末やスマートフォンがありますから、百科事典よりも膨大な情報を常に持ち歩いているようなものです。


 何か気になったらすぐ調べる。そして、その調べた先でまた「?」なことが生まれたら、それについてさらに調べる。そうして繰り返していくうちに、最初に調べたものはもちろん、その周辺のものへの知識も深まり、奥行きと広がりのある思考が生まれていくのだと思います。


 よく「検索ばかりしてたら、本当に頭の中には入らないじゃないか!」みたいなことを言う方もいらっしゃいますが、それは僕は違うと思っていて、こうして簡単に情報を得られる時代は、どんどん情報を掴みにいって、そして、深く、広く知識を深めて体系化することが大事だと思っています。体系化できれば、脳にはしっかり定着するでしょうしね。だって、インターネットが無ければ、一から本や資料を探し、読まなければならないわけで、そのとっても面倒なプロセスが割愛されたことを喜ばないのは逆にアホだと思います。


 そういう意味では、記憶力よりも、検索力の方が重要な時代なのかもしれません。そして、こうして情報が脳内で体系化されていけば、単に記憶したことをリターンするだけの“知識”ではなく、脳内で様々なものを関連させて、深く客観的にアウトプットする“知恵”になっていくと思うんですよね。そこに経験が重なり合えば、深みとスピードもアップするわけで。


 とまあ、こんなふうに考えることを考えることはとてもおもしろいことで、こういう思考を掘り下げることをもっともっとしていきたいなと最近よく思うのです。これだけ成熟した社会では、今後は確実に知の競争になっていきますから、今のうちからそのあたりを常に意識して過ごしたいものですね。ちなみに、考えることとは全く関係ありませんが、各段落3文ずつで書いてみましたが、読みやすいですか?