日常と非日常

 この前、普段は絶対行かないくらいの、とある高級レストランに行ったんですよね。それは、自分にとってはちょっとした背伸び体験だったんですけど、そこで感じたのが、題名の『日常と非日常』ということ。そして、そこでの食事を終えた後にいろいろ考えてみたんですけど、この日常と非日常って、よくよく考えてみると結構おもしろいテーマだなあと思うんです。


 先のレストランは僕にとっては非日常だったわけですけど、そこには普通に食事をする3歳くらいの子どもたちもいました。その子どもたちは、おばあちゃんとお母さんと親子三代で食事に来ていたのですが、きっとあの一家にとっては、そこでの食事は紛れも無い日常の光景なのではないかと、雰囲気を見ていて思いました。


 一方、一人で来ているOL風の女性もいました。どうでしょう、彼女にとっては、きっと自分へのご褒美として、あのレストランへの食事を選んだのでしょうか。実際には分かりませんが、さっきの家族ほど日常的という感じはしませんでした。


 このように、日常、非日常というのは、同じ場所、同じ空間でありながら、人によって全く異なります。3歳の子どもの日常も僕にとっては非日常だし、逆に僕の日常だって、他の誰かにとっては非日常であるわけです。そういうことを考えた時に、じゃあ大事なことは自分の日常をどこに持っていくのかということだなと、今回の件では気付かされたように思います。


 そして、この日常をどこに持っていくかという話は、人と人とのご縁が深まったり、浅くなったり、付き合う人が変わったりするのと、原理は同じだなとも感じました。


 僕は、大学生の就職活動をしていた時代に、浅見帆帆子さんという方にお会いしました。浅見さんは本を何冊も書かれてますし、本をご覧になったという方もいらっしゃると思いますが、まあお会いした時も、すごいプラスオーラを放たれていました。ああいう方はなかなかいませんね。


 で、その浅見さんも、著書等で「人間は自分のレベルによって、出会う人も付き合う人も変わってくる。レベルは螺旋階段を登り下りするような感じで、螺旋階段を一周りして一段階上のステージに行けば、そのステージにいる人と出会い、付き合うようになるし、逆にこれまで付き合ってた人でも、相手が同じようにレベルアップしていかなければ、自然とその縁は薄れていく。」というようなことを仰っています。


 これは僕もすごく実感しているんですよね。なので、そのために日頃からどういう心がけが必要かは、その本を読んで以来ずっと意識していますし、そういう意味では、浅見さんの本は僕の人生を変えた一冊であると言っても良いかもしれませんね。まあそれはさておき、とにかく自分のレベルが上がれば上がるだけ、新しい世界が当たり前のように自然に広がっていくというのは、たしかにあると思うんですよね。(恋人同士が別れたりするのも、こういうものの影響はかなり大きいと僕は思ってますw)


 そして、日常、非日常も、これと同じことだと思うんです。人間関係も空間も、全ては自分のレベルにリンクしてくるものだと。だからこそ、非日常を日常にするために、わざと自分を非日常空間に身を置いて無理やり鍛錬しようとしてもそれは無理で、そんな方法では日常になるばかりか、自分が苦しくなるだけだと思います。精神的にも、肉体的にも、金銭的にも。つまり、何か体育会系みたいに、そもそも無理やりやって自分の限界を超えたから日常になるというものではないんですよね。


 なので、いま自分がいいなと思う非日常が日常になるように、自分をしっかりと鍛錬をして、結果として自然なかたちで非日常が日常になるようにしていくほかないんだと思います。非日常が日常になれば、また新たな非日常が見えてくる。人生っておもしろいですよね。