自分と他人なんて『セロリ♪』みたいなもんだもんね

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 最近、人と人との違いについて、いろいろと自分で感じることもあるし、そういうことを言っている人も結構目にする。人と人なんて、夫婦でも親子でも親友でも別人なわけで、思想も思考も違うのは本来当たり前のこと。でも、人は他人に対して、自分との同調を求めがちだし、違う考えを持つ他人に対して、批判的に捉えがちだよね。これは、僕自身もそうだったなあと振り返ると感じるんだけど、最近は少しだけ、この人と人との違いを受け入れられるようになってきた。


 そのきっかけは、今回の震災だったりするのかもしれない。今回の震災でも、特に被災地の人々と、安全圏にいる人との間では、そもそも大きな考えの隔たりがあった。安全圏にいる人たちは、様々なことを自粛したり、被災者に対して「ガンバレ!」と心無い言葉をかけたり、放射能汚染を過剰に捉えて騒ぎ立てたり、買い占めをしたりした。これは、被災地にいる人や被災地に関連の強い人たちにとって、相当に違和感を感じていた部分も多い。


 でも、安全圏にいる人たちも、その多くは悪気があってやっているわけではないし、場合によっては、被災地に居る方を思いやって、気持ちを想像して行った行為なのかもしれない。とは言っても、そこは所詮他人。自分は自分だし、他人は他人なんだよね。それは、気持ちを想像したって、その人になることはできないわけで、当然、良く思われる部分も思われない部分もある。それは仕方ない。


 ただ、この仕方ないということを思えるかどうかも大事なことだと思うようになってきた。“仕方ない”、この一見諦めのように見える言葉だけど、これは諦めであって、諦めではないような気がするんだよね。他人が自分を分かってくれなくても仕方がない、自分が他人を分かってあげられないのも仕方がない、それはある種の諦め。でも、同時に自分とは違う他人の存在を、自分とは違う他人の考えを受け入れることと考えると、それは諦めではないと思うんだ。


 たしかに、自分と他人が同じなんてあり得ない。だから、夫婦だってケンカするし、親しい友人だって時には意見が分かれることもあるし、ビジネスの世界だって、ネットの世界だって、いろんなところで衝突が起きる。でも、衝突が起きると同時に、自分は自分、他人は他人なんだということを受け入れられると、またその自分とは違う意見への見方も変わるのかもしれないし、そもそも衝突なんて起きなくなるかもしれない。自分には無い一つの価値観を受け入れる。それは、正に視野が広がるきっかけにもなるかもしれないんだよね。


 思えば、僕も就活の時なんかは、意識的に多くの社会人の先輩方や、他大学の学生たちと縁を持つようにしてたけど、そのとき何でそんなことをしてたのかと思い返せば、自分に無い価値観を知って、視野を広げるためだった。僕もそれまでは、田舎で育って、田舎の大学に行って、あんまり異なる価値観を持つ人々が集まる環境に居なかったから、たぶん、すごく狭い視野で物事を捉えていたんだと思う。


 でも、就活中、いろんな人に会ううちに、他人の価値観や考えを知る面白さ、そして、それにより自分の視野が広がる面白さを強く感じたし、だからこそ、これは意識的にやってみようと思った。だって、就活中みたいに、経営者をはじめとした、様々な分野のたくさんの人に会える機会なんて、人生において、そうそうあることではないからね。その時は、自分と違う他人に出会い、その考えに触れることを楽しんでいたのに、いつしか、自分と違う考えに拒絶反応を示していたということに最近気づいたというわけ。


 もちろん、全てを受け入れることなんてできない。いや、できる人にはできるのかもしれないけど、今の僕にはまだまだそんなことはできない。でも、自分は自分、他人は他人ということを、諦めではなくてポジティブに見れるようになったら、物事の見方も、その人への見方もまた変わるのかもしれないんだよね。まずは、他人の考えを想像して、思いやることは大事だけど、でも、それでも立場も環境も違う他人であるが故に考えが異なる場合があるってことを、皆が知っておいたら良いんだと思う。


 そしたら、考えが違っても、良い意味で仕方がないって思えるだろうし、ひょっとしたら自分に新たな価値観が加わって、また違う視野で世界を見ることができるきっかけにもなるかもしれない。そんなふうに世の中を見れるようになったら、人と人との関わりも楽しくなって、世の中がもっともっと魅力的になるんじゃないかな。


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