あの日から24日も経ったのか〜東北関東大震災を振り返る(5)〜

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 さて、一週間空いてしまいました。この一週間は、先週には弊社のいわき支店のサポートでいわきに行ったりと、慌ただしく過ごしていました。いわきも、地震と津波の爪痕に加え、原発の放射能汚染の風評被害で、地震から3週間近く経っても、まだまだ大変な状況という感じでした。先週のそうした感想については、また後日このブログでお話しするかもしれませんし、しないかもしれませんが(笑)、まあとにかく後日ということで、前回までの続き(あの日から12日も経ったのか〜東北関東大震災を振り返る(1)〜あの日から13日も経ったのか〜東北関東大震災を振り返る(2)〜あの日から14日も経ったのか〜東北関東大震災を振り返る(3)〜あの日から17日も経ったのか〜東北関東大震災を振り返る(4)〜)に参りたいと思います。

20キロ圏内


 原発がマズイことになっている。この事実は、とても大きな難題として私にも、私の家族にも、福島県民にも、日本国にも、世界にも、重くのしかかるものになりました。私の実家も原発から20キロ圏内ですし、この原発の最初の爆発当時も、実家の家族は全員20キロ圏内に居ました。しかし、現地はなかなか情報が入ってこないし、両親もおそらくテレビも見れていなければ、ネットも見れていない。そして、おそらく自治体からの情報もあまり無い。そういう状況だと思いました。


 一方、うちの家族で両親よりも原発近くに居たのは祖母です。祖母は、浪江町の某所で暮らしていましたので、原発からたぶん10キロ圏内です。加えて、地震以来安否は分からずでした。私も弟も、その祖母の暮らす場所が海からそう離れているところではないため、津波の心配もしていました。しかし、ちょうど12日の夜ごろでしたでしょうか。祖母の無事も確認されました。祖母は、浪江町から別の場所に避難したということで、とりあえずは家族の安否は判明し、一安心した“ひと時”でもありました。


 祖母は、しばらく経って、浪江町から南相馬市原町区に移動し、現在は新潟県の某所に移動しているということが分かりました。でも、これが分かったのも地震から1週間後ぐらい。無事に生きているのは分かってはいましたが、家族ですらどこに居るか分からない。そんな状況が長く続きました。本当に、現地は情報が無かったんですね。

プロセスの欠如


 さて、話は戻りまして原発の問題です。まあこのように、現地は情報が得られない状態ということで、とりあえず私は、両親に対して、正しい情報をなるべく早く提供することに専念し始めました。携帯のメールが届きやすくなってきたのがせめてもの救いで、この頃は何とか連絡を取り合うことが出来ていました。私も大宮から帰ってきたばかりで身体は疲れているはずですが、12日の夜もずっとアドレナリンが出続けている状況で、結局夜遅くまで、テレビやネットとにらめっこしては、情報の取捨選択に追われていました。


 そして、12日の21時頃でしたでしょうか。南相馬市小高区の住民は、避難指示とともに、南相馬市原町区に移動しているという情報が母から届きました。うちの両親も例に漏れず移動しており、避難先が二転三転した後、(たぶん)原町第一中学校に移動したようでした。まあ、原発が予断を許さない状況でしたが、少しでも離れることができたのは良かったということで、とりあえず12日は休むことにしました。


 しかし、日が変わって13日になっても、原発の状況は悪くなる一方です。本当に悪循環とはこういうことを言うのでしょう。今回原発問題は“人災”とも言われていますが、たしかに、初動から対処まで、後手後手に回ってしまった感は否めません。東電も原発の平時の運転に関しては大きな問題も無くここまで来ていましたが、こうして制御不能になった原発を止める術が無かった。こういう事態にどう対処するのかという、指針とプロセスが無かった。それが実際のところだと思います。そうでなければ、ここまで後手後手になりませんし、菅総理が自ら原発に出向くなんていうバカなプロセスが発生するわけがありません。

非常時に音信不通というもどかしさ


 そんなこんなで、原発問題が悪化の一途を辿るのを心配しながら情報を集めていました。すると、弟から連絡が入りました。母からの連絡があり、父と全く連絡が取れなくなっている、と。「えっ!?両親は昨日一緒に原町一中に移動したじゃん!何で?」と思いました。


 どうやら、12日はたしかに一緒に移動したのですが、13日の朝に、父は川内村の勤務先が隣の富岡町の住民の避難所として開放されるということで、川内村から招集がかかり、川内村に行ったというのです。そして、そこから音信不通。そのうち連絡が取れるだろうと思っていましたが、これがまた、全くもって連絡が途絶えてしまったのです。


 そうなると、こういう時ですから、母も僕たち兄弟も不測の事態を考えてしまいます。途中の道中で何かあったのか、無事に川内村までたどり着いているのだろうか、と。ここから、私と弟はあらゆるところに連絡を取り、情報を掴むことに奔走しました。何せ福島県内は連絡がほぼ取れない。関東地方にいる僕らしか、連絡をとる術は無いのです。


 県の災害対策本部、県警、地元マスコミの友人、とにかく、連絡はなかなか取れないのですが、電話を掛けまくりました。そして、弟と私できちんと戦略立てて、こっちはこういう聞き方で〇〇を聞く、一方は、こういう聞き方で▲▲を聞く。そして、〇〇が聞けたとなれば、今度は□□を聞けるように話を通していく。そして、また別な所に電話をして、掴んだ情報の裏を取る。そんなことをしていました。


 そうしていく中で、問い合わせ先にも、真摯に対応して頂ける人と、もう迷惑そうに対応する人、様々でした。迷惑そうに電話出るなら、そもそも電話に出るなよと思いましたが、それは彼らも相当数の問い合わせを受け、疲労感もあるでしょうから、それはそれで仕方ない。そういう担当者に当たった時は、丁重に早めに電話を切り、しっかりご対応頂ける担当者にぶつかるまで、何度もチャレンジをしていました。そして、“この人は!”という担当者は、お名前を頂戴し、また何かあれば問い合わせられるよう心掛けました。


 とはいっても、さすがに災害対策本部なども、問い合わせが多過ぎるし、情報は錯綜するしで、あまり部内の連携も取れていない印象を受けました。極端な事を言えば、素人である僕らのほうが情報を掴んでいる部分も多々あったぐらいですから、本当に機能していなかったんだろうなと思います。しかし、13日の日は、いろいろな情報は掴めてきましたが、依然として父との連絡は固定電話も携帯電話も全く繋がりませんでした。母は、南相馬市から、さらに相馬市の親戚の家へと避難しましたが、心配がどんどん募っていっている様子でした。

そして、事態は動いた!


 そして、14日月曜日。父と連絡が取れなくなり、丸一日が経過しました。原発はさらに問題が深刻化していました。川内村も屋内退避区域ではありますが、ぎりぎり20キロ圏内から外れるぐらいの場所にあります。父も、もし無事に川内村にたどり着いていたとしても、原発から近いということでの心配も大きくなっていきました。


 14日も各方面に連絡をとっていましたが、なかなかコレといった情報を掴めません。ただ、妻がこの日の日中に福島県警に偶然にも連絡がついて聞けた情報は貴重で、川内村に現在14箇所もの避難所があるということでした。それまでは、川内村が実際に避難所となっているのかどうかも、人が居るのかどうかも分かりませんでしたので、「あ、おそらく父も居るんだな」と思いました。妻も何百回も電話をしてやっと繋がったようですが、県警は今回もっとも連絡が付きにくい緊急連絡先だったと思います。


 一方、私も前日の13日からは、Twitterやこのブログなどを使って、情報を取り始めていました。14日になると、こちらから結構良い情報が取れてきて、もしかしたら何とかなるかもとも思い始めてきました。そして、14日の午後です。私のTwitterのフォロワーの友人から、TwitterでDMが届きました。その友人の同僚の方が、現在、川内村の避難所にいるその方のお母様と連絡が取れている、と。


 ついに来た!ということで、申し訳ないながらも、その方のお母様を通じて、父の安否を確かめて頂けないか、お願いをしてみました。すると、その友人の同僚のお母様が、近くの避難所に居るであろう父のもとまで行ってくださり、父と話をしたという連絡が来ました。そして、程なくして、父から私の携帯に連絡が来たのです。14日の18時、音信不通から丸一日半が経過した時のことでした。


 そして、まず無事であるということ。というか、川内村は、水も電気も来ているということ。しかし、物資やガソリンは調達されず、村民が食材を持ち込んで炊き出しをしているということ。携帯の充電器は持っているが、固定電話と携帯電話は使えないということ(友人の同僚のお母様のauはたまに電波が入ったようで、それで連絡がついていたようです)。固定も携帯も基地局がやれてていて、復旧はしないだろうということ。しかし、ドコモも、避難所から車で10分程の、村の境目付近まで行くと電波が入る場所があるということ。ただし、その場所には一日一回行くのが限度であるということ。14日現在、川内村は3マイクロシーベルトであるということ。村民も避難してきている富岡町民も移動したいが、燃料もあまり無いし、屋内退避という中途半端なエリアのため、移動できずにいるということ。


 わずか5分ぐらいの会話でしたが、父と川内村の現状を聞き出し、こちらからもいくつかの情報を伝えました。で、連絡がついて無事が分かったということで、一番に伝えたのは、これから何とか川内村の自治体判断で、村ごと避難するよう村長にはたらきかけてみてはどうかということでした。私と弟が、隣の葛尾村が14日の朝に自治体判断で、移動したという情報を県の災害対策本部から掴んでのことでした。たしか、14日の日中に屋内退避のエリアが政府から設定されたと思いますが、そうして動きづらくなる前に、葛尾村は自治体判断で移動していたのです。


 それを引き合いに出して、川内村の村長に決断してもらうしかない。国が中途半端な指示を出している以上、そうせざる得ないというのが、僕たちの見解でした。父は、村長に直接言える立場に無いまでも、関係者に伝えてみるとは言いました。とりあえず、連絡がついたということと、電話の内容を母をはじめとした関係各位に連絡。皆、どれほど安堵したことでしょうか。

命の重みとそれが結びつける絆


 たった一日半連絡が取れなかっただけと思いますが、この一日半は僕たちにとってはあまりに長い一日半でした。父は、逆に連絡がつかないことでこんなに心配されているとは思わなかったようですが(笑)、普段は何かあった時にしか連絡を取らない家族が、一本の連絡が繋がらないことで、こんなに心配になるとは。弟との連携も、これまでに無いかなりの密接さでしたし、頼りになりました。震災が人々の距離を縮めたと各方面で言われますが、我が家族も正にそう。人の命の重みを強く強く感じました。


 15日になると、私と弟は、今度は県の災害対策本部等を通じて、川内村に自主避難をするよう促してもらえないかという依頼をしていました。これ、無理なお願いに聞こえるでしょうけど、川内村の災害対策本部に連絡をとる術が無い僕らは、県の災害対策本部を通じて連絡を取るしかないわけで、話の分かる担当者に当たれば、ちゃんと伝えていただけていました。ただ、なかなか受け入れ先や移動手段の確保も難航していたのでしょう。15日は結局目立った動きがなく、膠着状態のままでした。


 夕方には、また父から連絡がありましたが、状況は変わっていません。ガソリンの状況、避難所の避難者の方が移動できて管理から解放された際の父の移動先等、今後のことを伝えて電話を切りました。前日電話した時よりも、少し疲れたような声だったのを覚えています。


 その夜、川内村では村長から最後の防災無線として、以下のようなメッセージがあったそうです。



 しかし、この時点では“自主避難できる人は”です。ガソリンがほとんど無い中で、自主避難できる人は、そう多くは無かったでしょう。状況が変わらないまま、翌16日を迎えたのでした。

絶対に助ける!


 16日になると、さすがに母などの精神状態も限界になってきました。母も僕らに「早く父を助けてあげて」と、切に訴えてきました。「絶対に今日助けてやる!」、そう誓って電話を切りました。


 そして、その16日の午前中、引き続き県の災害対策本部に連絡をとっていた僕と弟は、ついに、良い情報を掴むことに成功しました。どうやら川内村が自主避難を決断し、福島市のあづま運動公園や郡山市のビックパレットふくしま等に移動するという情報が入ったという情報を得たのです。とは言っても、情報が錯綜している中ですから、まだ分かりません。


 そこで、今度は弟と分担して、受け入れ先の避難所に裏を取り始めました。すると、弟が電話したあづま運動公園は受け入れの予定は無いということでしたが、私が電話したビックパレットふくしまは受け入れるということでした。そして、ポイントは、現在川内村に避難している人たちが、みんな移動するのかどうかです。そして、私はビックパレットふくしまに聞きました。「何人ぐらいが移動してくるのか?何千単位か?」と。すると、ビックパレットふくしまの担当の方は、「何千単位です!」と答えました。よし、この情報は本当だということで、母にも連絡を入れて、もう少しの辛抱だと伝えました。


 そして、昼過ぎだったでしょうか、ふと父の携帯に電話をしてみると、電話が繋がったのです。「繋がった」=「川内村を移動した」です。そして話すと、ようやく移動し始めたということでした。父は、何とか郡山ぐらいまで行けるガソリンはあるということで、郡山の親戚の家に向かうことになりました。震災から5日、ようやく父は30キロ圏内(父がいた場所は21キロぐらいでしたが・・・)から脱出できたのです。母もさぞかし安心したことでしょう。母は先に避難した相馬市から福島市に移動していましたが、その日郡山にさらに移動し、父と落ち合うことができたのでした。

大切なことは平時と何も変わっちゃいない


 まだ先はあるのですが、この父の音信不通のキッカケを振り返ると、僕らはいろんな所に連絡を取りましたが、偶然にも連絡が着いたキッカケはTwitterでした。両親もそれにはビックリしていましたし、「お前、Twitterなんかやってんのか?」とバカにしてた母も手のひらを返したように感心していました(笑)。今回、Twitterに限らず、ネット上の情報の真偽ということはだいぶ問題にもなったわけですが、やはり、実際に当事者として使ってみると、もうこれはその人のリテラシー次第だなと思いましたよ、やっぱり。


 結局、情報をいかに取捨選択するか、そして、その情報の裏をいかに取るかがポイントで、その裏を取るために、逆に僕たちは災害対策本部や県警など、リアルな問い合わせ先に連絡をとっていました。そして、その情報に信憑性があるとなれば、Web上でさらに突っ込んで聞いたり、情報を拡散させる。そうすると、また新しい情報が得られて、またその情報の裏を取る。こうしたことの繰り返しだったと思います。


 でも、結局こういうことって、何もこうした震災時に限ったことではなく、平時も同じなんですよね。リテラシー次第、本当にそう思います。それが、こういう震災など人々の命に関わる事態になると、そのメディアとしての長所短所がクローズアップされる。それだけなんだと思います。ですから、世の中的には賛否両論がありますけど、今回の震災においては、僕らにとってWebはとても良い武器となりましたし、実際に結果も出て良かったなあと思います。(続く・・・)


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